好きとは頭の容量を割くことである

好きなことをたくさん書きます。タイトルでジャンルだけはわかるようにします。

メサイア大千秋楽おめでとうございました

 終わってしまったのか……というのが正直な感想。おっきーさんも言ってたけど、公演期間中はまだ、小太郎は生きていた。なんどもなんども死ぬという点では苦しいかもしれないけど、それでも生きてた。

 

それも昨日でおしまい。これから万夜は神として、小太郎だけの神として生きる。

 

臓器なんてパーツだ。そうやって雛森は言った。私もわりと同じ気持ちだが、臓器移植をした後に性格や嗜好が変わることは実際にあるという。

 

人は、主観で生きている。三人称視点の小説を神の視点と呼ぶように、世界を見るときに主観を取り除くことは、人間にはできない。

万夜は、小太郎の死に意味を与えた。ただのパーツであるはずの臓器に、小太郎を感じる。小太郎の生があると信じる。

小太郎は、臓器移植を提案した時に、自分の魂ごと、心ごと、移植するのだと思ったのだろう。俺をお前の中で生きさせてほしいと、思ったのだろう。

 

二人の異なる人間の主観が一致すれば、それは世界に存在する。だからやっぱり、臓器はパーツだとしても、小太郎は万夜の中に生きている。万夜は小太郎に生かされている。

 

メサイアって、救い主のことだ。何一つ救いのない世界で、お互いだけを心の支えにして生きている。ふたりは、正しい意味でのメサイアだ。メサイアにおいての正しさは、決してハッピーエンドだけではないのだと思う。

 

クロニクルのインタビューで、長江くんは、小太郎が前を照らしてくれるから、その道を進む、というようなことを言っていた。

もう照らしてはもらえない。一緒になった万夜と小太郎は、一緒の場所にしか存在できない。

横に並んでいるのだろうか。それとも、スタンドみたいに背中にあるのだろうか。どちらにせよ、万夜はこれから、一人で道を照らし、歩かなければならない。

万夜はいままで、一人では生きてこなかった。御神体になる前の御池万夜はわからないが、御神体に意思はないだろうし、小太郎と会ってからは、小太郎がずっとずっと、万夜の前を歩いていたのだと思う。

 

小太郎は死をもって、万夜を成長させた。「僕が神になる」そう言い切れたのは、確実に成長で、そして、万夜は前を向けた。一人で歩いていけるのだと、私たちに教えてくれた。

 

はぁ。

こんなことを言ってるけれど、とにかく悲しい。悲しいとかそういう次元じゃない。人が死ぬって大変なことだ。

その人を想う人の心が壊れるんだ、という雛森の言葉には重みがあった。きっとそれは雛森の実体験だ。

サクラは、友人や恋人になってはならない。それは決して、任務遂行に邪魔だからとか、そういうことではないのかもしれない。

友人や恋人ができるたびに、世界が広がる。そして死ぬたびに、壊れる。サクラである以上、メサイアというたった一人の救い主のための心以外を殺して生きることが、一番傷つかず、しあわせなのだろう。

 

小太郎は死んだけれど、万夜の中で生きている。万夜はメサイアを失ったわけではない。メサイアが本当の意味で死ぬことは、サクラにとってはきっとこれ以上ない絶望だ。

 

メサイアは深い。

幻夜が楽しみでありこわいのは、雛森・小暮の二人に特別な感情を抱いていることとは別に、サクラという現実離れしたほどに希望のない生き方のなかで、私の知らないしあわせを探す二人を見て、また新しくしあわせを定義するのが、私にとって恐怖だからなのだと思う。