好きとは頭の容量を割くことである

好きなことをたくさん書きます。タイトルでジャンルだけはわかるようにします。

メサイア月詠乃刻に寄せて

べつに大したことは言えないんですけど、とにかく昨日が楽しかったのを無かったことにしたくないので書きます。

 

4/22のライブビューイング、4/28の大阪公演ソワレ。

わたしがあの瞬間に立ち会ったのはたった二度だけ。たった一週間だけれど考える猶予と整理する猶予があって、同じシーンのはずなのに自分の考えてることが全然違って面白かった。

 

人は概念にはなれない。概念とは姿形を持たない。イデアと呼びかえるのが正しいような気もするので、イデアと呼ぶことにする。

小太郎は万夜にとって、太陽だった。太陽とはもちろん比喩で、暗く何も見えなかった自分に希望の光を照らしてくれる存在、正しい意味でのメシアだった。

万夜は小太郎にとって、神だった。ところで神ってなんだろう。神とは、救いを求めること人の縋る先。宗教というものは、人が生きることに意味を見出す手段。生まれた瞬間から死に向かい、死ねば全てが終わる、そんな一生に意味を見出すための。

 

二人はお互いをイデアのように感じていた。そう信じていた。しかし前述した通り、人はイデアにはなれない。姿カタチを持つ生き物だから。汚いところだって絶対にある。

 

ところで、「生きる 死ぬ たった一人の神になる」このキャッチフレーズ、素晴らしいなぁと思い、深く考えてみた。

句読点なし。並列ってことかな。生きるか、死ぬか、たった一人の神になるか。

でも、考えてみれば、生きると死ぬは相反するもので、生きていれば死んでないし、死んでいれば生きていない。第三の可能性はない。あるとしたらそれは定義の問題で、実際の状態としてはないはず。

では、最後の、「たったひとりの神になる」って、なんだろう。

 

開演してすぐ、万夜は「ぼくは昔かみさまだった」と言う。万夜は、昔神だった。では、今は?今は、御池万夜であり、それ以上でも、以下でもない。人間。

なんとなく、なんとなくだけれど、あぁそうか、と思う。生きる、死ぬ、それは人間に与えられた選択肢で、可能性だ。神は死なない、生きているという表現すら、間違っているのかもしれない。だって、この世に神なんていない。

 

ラストシーンで、万夜は、「生きる、死ぬ、生きる…………いいよ、小太郎、ぼくが神になる、たったひとりの神に」というようなことを言う。記憶力が悪いので間違っていても許してほしい。

生きる、死ぬ。たったひとりの神になる。その三つの選択肢は、決して並列ではない。前者二つは御池万夜のためにあって、最後だけは、柚木小太郎のためにある。御池万夜は神になった。

前述の通り、宗教とは、神とは、人が人生に意味を見出すために作られた。御池万夜は、柚木小太郎の死に意味をつけるために、その人生に意味を持たせるために、人間・御池万夜であることを諦め、たったひとりの、たったひとりのための、神になったのかもしれない。