好きとは頭の容量を割くことである

好きなことをたくさん書きます。タイトルでジャンルだけはわかるようにします。

人生で一番金を使った舞台が終わった話

人生で一番金を使った舞台が終わった。

千秋楽がつい四時間前くらいに終わった。

 

メサイア黎明乃刻という舞台だ。

 

続編も発表されていないが、脚本と演出の毛利先生と西森先生が卒業されるので、今すぐ続編と言われても不安が残るから、それはいい。

 

とにかく、涙が止まらない。

明日はふつうに平日で、仕事だし、朝からやらなきゃいけないことが山積みだが、止まらないので、吐き出す。この感情を。

 

人生で一番金を使ったと言ったって、たかだか30万ぐらいだ。全19公演のうち17公演に行った。もともと16の予定だったのだが、どうして行けないのか悔しくて涙が出たのでひとつだけ増やした。後悔はない。

 

私はもともと、舞台沼の人間ではなかったのだけれど、去年の四月にメサイア月詠乃刻のライブビューイングを見て(正確には予習のために見た暁乃刻で)メサイアという作品の虜になった。

何にも助けられないスパイ(サクラと呼ばれる)が、上司からの命令で組まされたバディ、メサイアを唯一の救いとして生きていく話。正確にはその養成学校の話。詳しくはわかりやすい説明をしてる方がたくさんいるのでそちらをどうぞ。

 

私はこれを見て、人間の絆の最高峰なのだと思った。過去にはたくさんのメサイアが卒業しているが、全て形が違う、最高の絆だった。名前をつけらとするなら信頼や依存や、ありきたりなものになってしまうけれど、そこには愛があった。

愛だ。メサイアの間には愛がある。それは親愛であり友愛であり、家族愛や兄弟愛であり、時には一種恋愛の類であるのかもしれない。

なぜこう表現したいかといえば、サクラはメサイアとしか絆を結べない。だから、そこには必ず愛があるし、愛であれば良いのだ。どんな種類でもない。一種、メサイアとしか表現できないそれがある。

 

そんな世界観にとんでもなく魅せられた。

沼に落ちてから、思い出はいろいろある。月詠のライブビューイングのその数日後には大阪公演のチケットを手に入れて、見に行った。新幹線で行った。とんでもなくお金がない時期で、電卓とにらめっこしていたのを思い出す。

 

幻夜は名古屋の上映館が遠くて、しかも免許合宿なんかで忙しくて、2週間ぐらいしかやんないし、8枚ぐらい持ってた気がする前売りをどうにか友人に頼んで行ってもらった記憶がある。結局映画館で見たのは同じ日に2回だけだ。ガラガラのど田舎の劇場で、上映合間に何をすればいいのかよくわからないし近くに飲食店もなくて昼ごはんに困った。

 

黄昏は東京で二度見て、大阪三度見た。社会人になる前最後の観劇で、もう東京に一人暮らし用の家があった。サンシャイン劇場は池袋から結構距離があった。腰を痛めて下のニトリで座椅子を買って帰った。

 

メサイアは特別だった。

月詠は、絶望とはなんたるかを知った。生で見なきゃいけないと思った。後悔すると思った。人の生は儚く、短く、舞台の上で繰り広げられるそれが、遠くない、身近なテーマのはずなのに、感じたこともない衝撃を受けた。

 

黄昏は、生で見る価値を知った。千秋楽の百人斬り、立った鳥肌が忘れられない。サリュートはたしかに死んだ。死んだのだ。私の目の前で、意思を貫き、たくさんのものを人々の心に遺して美しく気高く死んでいった。スークの中の人、みやこくんのことが好きなので、彼が心配だった。こんな命を削る舞台で、一番心を削っていた。演者をエンターテイメントとして消費しているのではないかという、恐怖さえ感じた。

 

とにかく、一言で言えば、おそろしい作品だった。

 

そして、黎明乃刻。9/5〜9/23、全19公演。主演は二人、橋本真一と、山本一慶。推しです。

行かなきゃと思った。シリーズ最終章、演出と脚本が卒業、推しが主演。行かない意味がわからなかった。

チケットを取った。こんなに取るのは初めてで、わけわからないくらい取った。わけがわからなくなりすぎて途中で管理できなくなり、公演2週間前くらいに、手元にチケットが余っていることに気づいたりもした。

 

公演2週間前くらいに誕生日だったが、とにかく2週間後のメサイアで胃が痛かった。友人に祝ってもらいながら、死んだら骨を拾ってほしいくらいの気持ちだった。

 

初日。

仕事終わりに行った。黒ずくめで喪服。メサイアにおいて、推しが死ぬか、死ぬより辛い目にあうか、その二択だと思っていたから、もう胃が痛かった。気分が悪くて吐きそうで吐きそうで、あの日歩いたGロッソまでの道を私は忘れない。

 

素晴らしい舞台だった。

最終回なのに、終わりじゃなかった。始まりだった。卒業するのかと思っていたけれど、なんと推しは人としてのスタートラインに立った。

見終わってみればそうだ。卒業してきた先輩たちは、たくさんの壁を乗り越えた。推したちはまだ、乗り越えられていない。だから、やっとスタートラインに立てた。立たせてもらった。

 

涙が止まらなかった。

黎明で描かれているのは、人間の弱さだ。強きものが全てを支配する、それではいけない。弱いながらに支え合って、助け合いながら生きていく。

当たり前のことだった。それを、2時間半見て、私は、それを忘れてたんだと気付いたのだ。

 

初日から数えて、17回見た。17回同じセリフを聞いて、17回同じストーリーをなぞった。

同じ演目だと思ったことは一度だってない。

すごかった。別物なのだ。初日から、大阪、凱旋。ぜんぶぜんぶ、同じ公演なんてない。

毎回何か発見した。毎回泣いた。

 

私は泣けない人間で、苦しくても辛くてもあまり泣くことがないから、たぶん五年分ぐらい泣いた。ハンカチがアイシャドウでぐちゃぐちゃになる毎日だった。

 

そして、大千秋楽。

もう、始まってすぐの、オープニングで、ダメだった。これが最後。全ての演技が、最後。

 

楽しかったばかりじゃなかった。土日をぜんぶ潰したぶん、平日にしわ寄せが来て、仕事がきつかった。心に余裕がなかったから、いろんなことに傷ついた。

それでも、やっぱり総括して、楽しかったのだ。これがやりたかった。見れるものはぜんぶ見たかった。

 

推しの笑顔に泣いた。カーテンコールは正直あまり覚えてないくらいに泣いた。

 

でも、心に響いた言葉がある。

「人は弱くて、支えあいながらしか生きていけない。それはみんなそうで、この作品が、誰かの助けになれていたら」

 

私は、この作品に支えられていた。誰がなんと言おうとそうだった。そして、その言葉を聞いて、友人の顔が浮かんだ。

一人じゃ生きていけない。そうだ。一人じゃ生きていけない。私は弱くて、支えられて、それで生きている。そう思ったら、涙が止まらなかった。

 

電車でボロボロ泣いた。花を持っていたから、ふつうに不審な人だったと思う。白いハンカチはもうわりと再起不能なくらいアイシャドウで茶色い。

 

悲しかった。もう見られないことが。こんなに素晴らしいのに。悲しいという気持ちを人生であまり感じた覚えがなくて、泣きながら振り返った。

 

思えば、おじいちゃんの葬式の時に感じた思いに似ていた。

おじいちゃんのことが大好きだった。でも、生前のおじいちゃんは三大疾病を全部制覇して、もうボロボロで、見ていてかわいそうなくらいだった。

死んだら楽になれるのかもしれないと思っていた。もうほとんど息をするだけの姿を見て、死んだほうが楽なのかもしれないと、あの頃の私はたしかに思っていた。そして、もうすぐ死んでしまうのだと、覚悟を毎日決めていた。

 

通夜は泣かなかった。おじいちゃん、そっちはどうかな。ここよりは楽なんじゃないかな。そんなふうに思っていたし、一種の解放に、安堵していた部分もあった。

 

葬式の途中で、ふと、どうしてだか、急に実感が湧いたのだ。ここ2日見続けた死体を前にして、もう会えないのだと。急に思って、ボロボロ泣いた。かなしかった。とにかく、悲しいとしか言えなかった。

 

その気持ちだった。

終わることは知っていた。シリーズ完結と言われて、その時はそうだろうと思ってた、と思っていた。通っている間だって、見て泣いたのは、終わるからじゃない。

 

とにかく、とにかく。帰りの電車は悲しくて悲しくて、涙が止まらなかった。どうしてとかそういうのももう、どうでもよかった。ただ、かなしかった。いまもそうだ。

 

夜は開けた。悲しくても、涙が止まらなくても、1日が始まる。

生きなきゃいけない。生きて、この作品を糧に、人生を歩まなければならない。

 

メサイアに、たくさんのことを教えてもらった。演劇の楽しさも、生で見る価値も、人が死ぬのが、どんなに大変なことかも、人がこんなにも弱いってことも。多すぎて数えきれない。

 

たぶん明日の仕事中も、思い出したように涙が出るんだろう。いつまでかはわからない。魂に刻まれたこれが痛むうちは泣くだろう。

それでも毎日生きていこうと思う。教えてもらったことは消えないから。それを糧に生きていきたい。

月刊松田凌発売おめでとうございます

 

本当におめでとうございます。

そしてイベントに行ってきたのでレポします。

 

一部から三部まで全通しました。結論、行ってよかった。

当初の目的は、別冊を揃えたいのと、今後何度あるかわからないチェキを堪能したいだったんですけれども、結果的にトークも本当に、聞いてよかったです。

 

ところでわたしはいままで三次元には興味がなく、自動的に現実から切り取られた静止画にもあまり価値を見出したことがなかったです。写真を見ても、「顔がいい」「好み」「好みじゃない」の三択に分けられるぐらい。

凌くんが力を入れているのはブログとかからもわかったので、買うか!みたいな。軽い気持ちでした。

 

結論、写真は芸術であり、月刊松田凌は作品である。です。ファンの方からしたら当たり前なのかもしれないけど。

 

まず、各部イベントの感想。

 

一部は、エンジンかかり始めという感じでした。小林さんがおっしゃっていたのは、自分の作品ではなく、チームで作り上げられるものであるので、自分の希望をガチガチに伝えるのではなく、全員の力を合わせて作り上げたいと考えていたこと。大天才の五段階評価の5よりも、五段階評価の2を4人合わせて、2•4=8を狙っていきたい。

韓流好きだけれど、あまり深くハマると真似になってしまうから、そういうある種同類のような芸術の関連にははまらないようにしている、と言っていたのも一部だったかな。印象的でした。

一部で配布されたのは別冊月刊Ⅰだったので、その話も。Ⅰはプロトタイプだったとのこと。初期構想そのままがⅠ。撮影は浜松の廃墟。

炎の中で撮影したものも含まれ、知り合いのスタジオを燃やさせてもらったとのこと。全面コンクリだから燃やしても大丈夫だったが、灯油は灯油を撒いたところしか燃えないので計算するのが大変だった。

「燃やす撮影始めて、あ、ライダーの時に少し、でも長時間はきつい」みたいなことを言った凌くんに、「燃やさせてくれるスタジオがないからね」という小林さんのマジレス。

凌くんが韓国で深夜3時まで買い物に行ってた話もしてました。あと、韓国人に結構マジで狙われていて、頭を噛まれた話。その男性には彼氏がいて、嫉妬していたらしく、ふつうに俺巻き込まれ事故じゃん!と言ってました。

 

二部。わりとエンジンかかってました。別冊Ⅱは、反骨精神あふれる、松田凌の心の内そのものという感じだそう。鉄格子ガチャガチャはしてないけど!みたいなこと言ってた気がします。

あと、バナナおいしいの帽子の話。韓国のマーケットで叩き売られていた「バナナおいしい」と書かれた帽子を小林さんと凌くんお揃いで購入。二部に被ってきていました。裏話?追加のお話で、シクガの本番中、マチソワ間に牛丼が食べたくなって有楽町の吉野家に行ったところ、道中で「パインおいしい」の帽子を被った人に出会ったとのこと。どんな偶然。生き別れた兄弟にあったみたいな感動、的なこと言ってました。

あと「僕はたのしい」みたいなTシャツを最近買ったというお話も。買ったけど最近流行ってるみたいでちょっと残念というか、ちぇっとなってたと言ってました。ちなみに司会の小林さんが「僕はおいしい」でしたっけ?と言い間違え、「生放送なら事故」と言われてました。生だからもっと事故なのでは。

何にでも嫉妬してしまう、という話もここだったかな……周囲にいつも嫉妬してます、役者、年下年上問わず、最近なんて関係ないのに大谷翔平に嫉妬してる。あんな完璧超人います?欠点絶対ある探したい……的な(笑)

 

三部。最後ということもあり、エンジンかけつつふわっと落ち着いてた感じでした。別冊Ⅲはまさにいまのような感じで、テンションマックスパッションぶつけまくって作った月刊のあとの、みんな好きでしょ?的な松田凌、とのこと。

三部で一番印象に残っていたのは、小林さんの、「月刊は、カタログにしたくない」という話。月刊、別冊三冊それぞれにカラーがあり、テーマも違う。これをもし同じ冊子にまとめてしまったら、ドンキホーテの棚になってしまう。なんでもあり、百貨店のカタログになってしまう。そうではなくて、作品でなくてはならない。だから分けた。

あとは髪型の話。全部地毛で、カットごとや衣装ごとにちまちま切っていたのだとか。そして、韓国での撮影はストレートが多く、技巧を凝らすのではなく、ニュアンスを変えたかったと。

あとあれです、ここ(廃墟)って入っていいんだっけ?あっだめなやつ?みたいな話をしている時に、ていうか!土地の権利とか誰が決めてんの!地球上全てみんなのものだから!権利とかないから!って言い出した。

三部は締めということもあって、凌くんが長く謝辞を述べていたような。最初の写真集はZeroで、原点だった。これからはこの月刊が原点。願わくば、これから先、ここを原点としてさらに前に進む自分を見てほしい。ファンがいるおかげでいまの自分がいたし、この月刊が発刊されたし、本当に感謝を述べたいと思って、二日間のイベントを行ってきた。とのこと。

 

 

以下感想!

そうやって自分にコミットメントして自分を追い込むような、向上心の塊で上しか見ない生き方をする凌くんが好きなんだなと!改めて思いました!

あと本当にしゃべり方が好き。ふつうに幸せでした。耳が。

なんというか、反骨精神もあるし、向上心もあるけれど、基本的に兄貴質で、優しくて、曲がった事が嫌いで。そういう凌くんが堪能できたイベントだったなって、あらためて思いました。

凌くんとの接触初めてで、正直もうどうすればいいかわからんし喋ることねぇって思ってたんですけども、FC特典の写真見たり、ご挨拶聞いていたりしたら、やっぱりいつも、エンターテインメントとしての彼を消費させていただいてる身として、感謝を述べたくなるわけで。どこに感謝を述べたいかな、と思ったときに、やっぱりブログかなって思いました。毎日更新するのって大変だし、写真も毎日載せてくれて。私はそれを見て楽しくなったり嬉しくなったり、時には自分の一日を反省したりする。無為な一日を過ごすことは罪ではないけれど、頑張っている人を見て向上心を持っている人を見て、それにインスパイアされるような人になりたいと思わせてくれる彼のブログが好きなので。

コミュ障で口下手だけど、きちんとありがとうを伝えられたから、満足です。こういうのって結局どうせ自己満なので、私が満足したから最高のイベントでした。あとそのことに気を取られすぎて(プラス手を握られた衝撃で)腰が引けてしまい、もっとこっち寄って、って言われた時は申し訳なく思いつつ逃げたくなってました。無理、近いです30メートルぐらいください

 

凌くんの好きなところ、について考察したり、一日中、凌くんのことを考えられて幸せでした。向こう3ヶ月くらいは生きられそう。

 

続けて、写真は芸術、っていう話ですが。私いままで写真って現実の一瞬を捉えたもので、二つの次元を下げる(立体→平面、一瞬)ことでやはり映像には劣る、っていうぼんやりしたイメージを持ってました。

そもそもそれが違うんだなっていうのが、まず一つ。映像に価値を見出すのはパフォーマンスが好きだからなんですけど、それはそれとして、現実だからこそ一瞬一瞬に出来不出来があって、いろんなコンディションが合わさった奇跡の一瞬を切り取る、高等芸術ですらあるのかなと。

それに、こと月刊に関しては、写真というより、スチルに近いものもあるのかもしれないと思いました。元乙女ゲーマーだったもので……

写真自体は一瞬を切り取ったものであるかもしれないけれど、そこにはストーリーがあって、前後の関係があって、そして、なにより演者としての松田凌が、意志をもってそこに被写体として存在する。それでもう、一つの物語が完成されている。言語というツールを使わないので解釈の余地は通常よりもおそらくあるけれど、またそれが味なのかなと。

 

ふとした時に見返してほしいと凌くんは言ってましたが、ちょっとふとした時に見返すには重たくないか?と思います。別冊Ⅲの裏表紙、ちゅってしてるやつはいつもしてるやつじゃないそうです。そりゃそうだ。

 

大好きな絵描きのにぼしちゃんに「絵画に馴染んでてすごい、本当に綺麗な人じゃないとなじまない、しかも現代アートじゃなくて中世画、すごい」って言ってもらえたのでベリハピです。表紙のピンクのスーツ(?)、すごい。私は美の化身って感じがする

 

そろそろ眠いし思い出せるだけ吐き出したのでここまでにします。

ちなみにマジレスすると、国家の三要素は、「主権、領土、国民」なので、地球上の土地を分割することで国家が存在するわけですね、だから領土という概念をなくしてしまうと国すら存在しなくなってしまいますので、地球上に存在する陸地は結構「国の持ち物」なわけです、だから全員のものであるべきではないのですね……以上誰も得しないマジレスでした……

 

戦争と平和と有賀と間宮とモンスター

部屋とワイシャツと私みたいな

 

いやそういうことじゃなくて(わかるわ)

 

鋼の感想とか深く考えるのはあと5回みてからにしようかと思ってたんですけど、高殿せんせの質疑応答(たぶんずっと前のやつ)まとめを読んだのでちょっと思ったことを書きます……耐えられなくて……

 

以前、間宮のファンの方のブログで、有賀は戦争で間宮は平和なのだと読みました。それは正しく、間違いではないと思いました。

有賀は戦争の化身です。幼い頃から人を殺し、殺伐とした世界で生きてきた。育ての親を殺しすらした。

間宮は平和の化身です。幼い頃から両親に愛され、バイオリンを嗜み、きっと大きな不自由なく生きてきた。

世界の改心調印式典。テロの起きたあの日、交わるはずもなかった二人の運命は交わってしまった。平和が成立するはずの場で、戦争が起きた。

平和とは脆くも儚い。幻想のようなものです。人は愛ゆえに人を憎み、愛ゆえに人を殺す。ラブアンドピースは牛尾総理の代名詞というかキャッチコピーというかイメージ戦略ですが、ラブの元にピースが成り立たないという大きな矛盾。

二人はあの式典会場で見える世界が変わりました。間宮は真っ白なはずの世界に真っ黒な影を、むしろ、今まで自分が信じた白は黒だったのだと気付かされた。一方で有賀は、真っ暗だった世界に、たった一つの白い希望の光を見出した。

 

有賀は救われた。希望の光は間宮星廉の形をしていた。

間宮は絶望した。この世界は欺瞞に満ちている。信じられるものなど何もない。

堤嶺二は、自分のために作り出したモンスター、と、間宮と己を表現しますね。あの式典から、間宮は間宮でありながら、「モンスター」となる。これを仮に別人格のように、「モンスター」と表記して扱うとして。

「どうして人は、人を殺すのかな」そう冒頭で問いかけた間宮は、間宮でした。だってきっと、戦争を生きてきた有賀はそんなこと考えたこともない。自分が生きるため、死なないためには相手を殺すしかない。間宮は平和に生きているからこそ、殺す手段を取らない、取りたくない。話し合いで血を流さずに解決できることもあるのだと思える。

「愚かだからだよ!」あの港で、そう答えた間宮は「モンスター」でした。

 

ところで、二人の答えってなんだか、毛色が違うような気がしませんか。

 

「どうして人は人を殺すのですか」

これは英語にするとWhyから始まる疑問文になるでしょう。そして、主語は人です。

間宮の答えは正しく、「それは、人は愚かな生き物であるからです」となる。きちんと人が主語。

でも、有賀の答えは、「生きるためだ」でした。誰が生きるため? もちろんそれは、有賀自身や、仲間や、敵や、今まで有賀の目の前で人を殺した人のことです。

間宮の答えは、客観的で、一般論。有賀の答えは、主観的で、彼の経験則からきている。これが、二人の答えの毛色が違う理由で、二人の生きてきた世界が違う証明でもあると思います。

間宮には思い悩むことがあったでしょう。どうして人は人を殺すのか。テロリストはどうしてテロを起こすのか。戦争はどうしてなくならないのか。彼がたどり着いた答えは、「愚かだから」でもそれは、証明しようもないこと。

有賀は違う。そんなことを考えてはいられなかった。主語は「人」や「人間」じゃない、自分なんです。今ここでこいつを殺さなければ自分が殺される。どうして俺がお前を殺すのか、それは、殺さなければ俺が死ぬからだ。生きるためにお前を殺すのだ。

すごい問いかけだなって思います。この問い一文だけで、その人がどこで生きてきたのかがわかる。そして、同時に、有賀と間宮が、一生相容れないのも、わかってしまう。だって、もう違うんです、こんなにも。

 

「どうして人は人を殺すのか」その問いは二度出てきますが、どちらも、「平和」から「戦争」に対して投げかけられているのだと思います。一度目は間宮から有賀へ。二度目は、有賀から「モンスター」へ。

 

サクラ候補生だった間宮。クァンタムキャットの構成員だった「モンスター」。

二重人格だったわけではない。でも、こうとしか表現しようがない気もしています。

間宮はチャーチの中でバイオリンを弾いていました。バイオリンは平和のシンボルであったと、私は考えていますし、間宮にとっても有賀にとってもそうであったと思います。だからきっと、チャーチにいる間は、間宮星廉はまだ、間宮星廉のままでいることができた。

人は決して一つの顔だけを持つわけではない。所属する組織によって立ち位置が違って、役割が違って、求められるものも違う。当然、表出する顔もちがう。

チャーチで学んだ間宮も、間宮星廉でした。でも、クァンタムキャットとして、ショートヘアとして、テロを企て、嶺二を殺した「モンスター」も、間宮星廉でした。

人はそれを意識して使い分けてはいない。決して二重人格ではないけれど、気付いたら別人のようになっている。

 

有賀との絆を感じた瞬間に、間宮星廉は自分が、どうしようもなく裏切り者だということを強烈に意識した。

目指すものが違う。見る景色が違う。今まで第三者だったのに、自分のせいでこの男は死ぬかもしれない。自分はもう「平和」ではないのだと、気付いてしまう。

 

「俺はこれから、だれかのために人を殺す。だからここで死ぬわけにはいかない」

 

私はずっと昔から、世界中のすべての人が現状維持で満足をすれば、戦争はなくなると思っています。領土も金も利権も地位も名誉も何もいらなければ、銃を突きつけ合う必要は何もない。これはすべて、自分のために人に銃を向けること。なんだってそうでしょう、始まりはすべて、自分がこうしたいから、という利己主義。そこから戦争は始まっている。

有賀は作中でおそらく唯一、生まれてから死ぬまで、もしくは霊杯の日が訪れるまで、人を殺し続けるキャラクターです。上から命令されて人を殺す、自分が生きていくために。その図式はチャーチに入る前と後とで変わらないけれど、彼のモチベーションが変わっている、というのを、端的に表しているセリフが、上記なんだなとも思います。

この世界の誰かが生きていけるために、人を殺す。自分ではなくて、だれかが生きていけるために。

平和な世の中を作りたいと思っていた、誰よりも平和の象徴であった(少なくとも、有賀にはそう見えた)間宮に触れて、有賀が導き出した答えは、「これからも人を殺す」でした。

逆に、間宮は、戦争に触れて、テロを目の当たりにして、「世界を壊す」ことでしか、この世界は変わらないと思った。

 

あぁ、戦争終わらないな。私はそう思いました。有史以来戦争を続けてきた人間は、争うことでしか生きていけない。ネクロマンサーは正しかった。

 

それでも、地球は回ってるし、人は生きている。

人間の世界は、主観でできています。認識しないのは、存在しないのと同じ。この世界とかいう抽象的で存在しないものを守りたいんじゃなくて、大切な人がいるから、守りたい、死んでほしくない。それがある意味、健全な、サクラが戦う理由なのではないかと思うんです。その最たるものが、メサイア。相手もそう思って生きているから、自分も死ねない。

 

二世代ってある意味、怖いほど不健全だな。

 

こんなに書いても結局とっ散らかった思考はどうにもならない……鋼は怖い。メサイア怖い。

 

もう少し考えて、また鋼について書きたいなって思います。卵ふたりも書きたいし、本当は、ありがいつきについて書きたいのに、もう鋼が凄すぎて、とにかく凄すぎる。

またいっぱい見て、いっぱい考えたいです。そう思えるステキな作品だなって思う。涙止まらないけど。

 

私は盲目であったが、今は見える。

翡翠ノ章二回ぐらい見ました。ハッピーエンド。

まだなんかこう、口開けてほあ〜って見てる感じなので難しいことは何も考えておらず(っていうかその後にみた鋼が衝撃的すぎて翡翠は幸せだ〜!ってなってただけ)何も書いてなかったんですけども、タイトルのセリフについて考えてみました。

 

キリスト教学が大学の必修にあって、それでやった程度なんで、例に漏れずネットの知識なんですけども。

 

「私は盲目であったが、今は見える」は、イエスが盲人の目を治す話から来ていて。

弟子たちが「この者は前世などで罪を犯したからこうなったのですか」と言うのに、イエスが「いえ、神がいると知るために盲目なのですよ」と答える的な。そしてイエスが目を治す。

エスを紛糾する人々に対して、元盲人が「私は盲目であったが、今は見える」という、確固たる事実を突きつけると。

この言葉を解釈するというか、鋭利がここでこれを持ってきた意味を考えたいんですけど、えっこれもしかして私が知らないだけで秘話とかあるのかな。それとも頭お花畑だったから聞き逃してた?何でこんな言葉を持ってきたのか不思議で考えたくなってるので、もし理由知ってる人がいたら教えて欲しいです。

 

 

とりあえず考えたので吐き出すと。

「盲目であった」→神の存在を知らなかった人間

「見える」→神の存在を知った、幸福な人間

えっわからねぇ……珀に残したメッセージだよね?これってどういう解釈をしても自己完結になる気がして。鋭利がどういう存在でどういう変化をしたのかという解説になってしまう。珀に対して何を言いたいのかがわからない。

 

ちょっと考えを変えてみて。

エスの言葉、要約すると、何かをしたから結果彼は盲目なのではなく、彼は神の存在を知るために盲目で生まれたのです。盲目は原因なのです。ということ。

そして、この言葉から彼が、盲目であることにある種の喜びすら感じているのではないかと思えます。今まで盲目であることはハンディにしか感じなかったけれどなるほど、今日この日見えるために、私は盲目であったのかと。

 

鋭利に置き換えてみて。彼は死なない男です。幾度の死線を生き延びてきた。辛かっただろうし悲しかっただろうし、死にたいと、あの時死ねていたらと思ったことがあったかもしれない。しかし彼は「絶対に死なない男」。この言葉に重ねてみると、

鋭利は今まで瀕死から生き返ってきたから死なない男なのではなく、珀のメサイアになるために「死なない男」であったし、これからもそうである。

「死なない男」は、結果ではなく、原因なのではないか。「死なない男」であったから珀のメサイアになったし、「死なない男」であるから、これからも「相方が絶対に死ぬ男」のメサイアでいつづけるのだと。

しかもこれで、鋭利は自分の今までの人生を肯定し、「死なない男」であることに喜びを感じている。死に損ない続けたから死なない男なのではなくて、鋭利は珀のメサイアになるために、いつづけるために、「死なない男」という運命を背負うのだと。そうも読み取れます。

 

ちょっと納得できた。これであれば、珀に「自分は死なない男であり、お前がメサイアだと信じ続ける限り死なない」というメッセージ。生きていると伝える。いやわかりにくすぎる……スパイの情報伝達怖い……

 

冷静な珀なら分かったんでしょうか。なるほどそういうことか……ってもし思ったとしたらすごすぎる……公安すごすぎる。

 

結果と原因はイコールでは結ばれない。そこには因果関係はあるけれど結果から原因は生まれない。海棠鋭利の「死なない男」は原因であり、御津見珀の「相方が死ぬ男」は、芹沢を原因とした結果である。そもそもこの二人のジンクスは同じ土俵に立っていなかったのかもしれません。

 

なんかもう少しこの言葉の理解につながることを言ってたかどうか翡翠を見返そうかなと思います。もう2回見たけど……足りないです……来いナニー!!

ゴールデンウィークですね(メサイア雛森小暮について)

GWも説明会開催中!っていう会社説明会の案内メール来たんですけど、ゴールデンウィークに説明会する企業はゴールデンウィークないってことじゃないですか……?なんでそれで人が集まると思ったのかちょっと聞きたい。

 

それはそれとして、雛森&小暮について。

雛森の態度が特になにがあったわけではないのに軟化してるのは、「俺のメサイアかわいい」っていうフィルターのようなものが働いてるからなのかなぁと。

雛森は、メサイアっていうシステムについてしっかり理解してて、メサイアに縋ることで生きていきやすくなるとわかっているんだろうな。

あと、「おまえ、俺に似てきたなぁ」が個人的に好きです。遺伝と環境、二つの影響で人は成り立ちますが、遺伝子が同じでも環境の違う小暮は一嶋とはあきらかに別人ですね。

「地獄に落ちろ」も好きです本当に好きです。小暮以外には一嶋にしか感情を露わにしないので(いやごめんゆきにもでしたね)、新鮮だし、あの一言超的確です。

雛森の上半身を後ろに傾けてからのバックステップめっちゃ好きなのであのGIF画像作ってくれないかなだれか。ラバストも後ろに傾いて二丁拳銃なのわかってすぎですよね。こんなの買うしかない。

 

クローンと聞くと、とある魔術の〜の、妹達を思い出します。そして同時に、推しがクローンだったがためにクローンについて調べまくった友人のことも思い出します。

前者は少し悲しくて、やっぱりクローンは殺されるために生まれてきていて、それでも多少個体差があるというか。結局小暮がなんのために生み出されたのかわからないので、そしてなんのために生かされたかもわからないので、想像に過ぎないんですけど。

後者については、クローンって同じ姿形にはならないらしい。同じ遺伝子でも絶対に違うところができるそうで。へぇ〜って思ったのを覚えてます。去年の2月ぐらい。小暮が一嶋と違う姿なのはそういうことなのかなとか。だから死んでも代わりはいる理論は間違ってるわけで。

 

とにかく幻夜が怖いです。俺はおまえのメサイアだって言い切ってくれた雛森が、小暮にどんな影響を与えるのか。メサイアを一度失っている雛森に小暮はどんな影響を与えるのか。ゆきも気になる。

 

秋っていつだろう……なるべく早いほうがいいな、そわそわするから。

メサイア大千秋楽おめでとうございました

 終わってしまったのか……というのが正直な感想。おっきーさんも言ってたけど、公演期間中はまだ、小太郎は生きていた。なんどもなんども死ぬという点では苦しいかもしれないけど、それでも生きてた。

 

それも昨日でおしまい。これから万夜は神として、小太郎だけの神として生きる。

 

臓器なんてパーツだ。そうやって雛森は言った。私もわりと同じ気持ちだが、臓器移植をした後に性格や嗜好が変わることは実際にあるという。

 

人は、主観で生きている。三人称視点の小説を神の視点と呼ぶように、世界を見るときに主観を取り除くことは、人間にはできない。

万夜は、小太郎の死に意味を与えた。ただのパーツであるはずの臓器に、小太郎を感じる。小太郎の生があると信じる。

小太郎は、臓器移植を提案した時に、自分の魂ごと、心ごと、移植するのだと思ったのだろう。俺をお前の中で生きさせてほしいと、思ったのだろう。

 

二人の異なる人間の主観が一致すれば、それは世界に存在する。だからやっぱり、臓器はパーツだとしても、小太郎は万夜の中に生きている。万夜は小太郎に生かされている。

 

メサイアって、救い主のことだ。何一つ救いのない世界で、お互いだけを心の支えにして生きている。ふたりは、正しい意味でのメサイアだ。メサイアにおいての正しさは、決してハッピーエンドだけではないのだと思う。

 

クロニクルのインタビューで、長江くんは、小太郎が前を照らしてくれるから、その道を進む、というようなことを言っていた。

もう照らしてはもらえない。一緒になった万夜と小太郎は、一緒の場所にしか存在できない。

横に並んでいるのだろうか。それとも、スタンドみたいに背中にあるのだろうか。どちらにせよ、万夜はこれから、一人で道を照らし、歩かなければならない。

万夜はいままで、一人では生きてこなかった。御神体になる前の御池万夜はわからないが、御神体に意思はないだろうし、小太郎と会ってからは、小太郎がずっとずっと、万夜の前を歩いていたのだと思う。

 

小太郎は死をもって、万夜を成長させた。「僕が神になる」そう言い切れたのは、確実に成長で、そして、万夜は前を向けた。一人で歩いていけるのだと、私たちに教えてくれた。

 

はぁ。

こんなことを言ってるけれど、とにかく悲しい。悲しいとかそういう次元じゃない。人が死ぬって大変なことだ。

その人を想う人の心が壊れるんだ、という雛森の言葉には重みがあった。きっとそれは雛森の実体験だ。

サクラは、友人や恋人になってはならない。それは決して、任務遂行に邪魔だからとか、そういうことではないのかもしれない。

友人や恋人ができるたびに、世界が広がる。そして死ぬたびに、壊れる。サクラである以上、メサイアというたった一人の救い主のための心以外を殺して生きることが、一番傷つかず、しあわせなのだろう。

 

小太郎は死んだけれど、万夜の中で生きている。万夜はメサイアを失ったわけではない。メサイアが本当の意味で死ぬことは、サクラにとってはきっとこれ以上ない絶望だ。

 

メサイアは深い。

幻夜が楽しみでありこわいのは、雛森・小暮の二人に特別な感情を抱いていることとは別に、サクラという現実離れしたほどに希望のない生き方のなかで、私の知らないしあわせを探す二人を見て、また新しくしあわせを定義するのが、私にとって恐怖だからなのだと思う。

メサイア月詠乃刻に寄せて

べつに大したことは言えないんですけど、とにかく昨日が楽しかったのを無かったことにしたくないので書きます。

 

4/22のライブビューイング、4/28の大阪公演ソワレ。

わたしがあの瞬間に立ち会ったのはたった二度だけ。たった一週間だけれど考える猶予と整理する猶予があって、同じシーンのはずなのに自分の考えてることが全然違って面白かった。

 

人は概念にはなれない。概念とは姿形を持たない。イデアと呼びかえるのが正しいような気もするので、イデアと呼ぶことにする。

小太郎は万夜にとって、太陽だった。太陽とはもちろん比喩で、暗く何も見えなかった自分に希望の光を照らしてくれる存在、正しい意味でのメシアだった。

万夜は小太郎にとって、神だった。ところで神ってなんだろう。神とは、救いを求めること人の縋る先。宗教というものは、人が生きることに意味を見出す手段。生まれた瞬間から死に向かい、死ねば全てが終わる、そんな一生に意味を見出すための。

 

二人はお互いをイデアのように感じていた。そう信じていた。しかし前述した通り、人はイデアにはなれない。姿カタチを持つ生き物だから。汚いところだって絶対にある。

 

ところで、「生きる 死ぬ たった一人の神になる」このキャッチフレーズ、素晴らしいなぁと思い、深く考えてみた。

句読点なし。並列ってことかな。生きるか、死ぬか、たった一人の神になるか。

でも、考えてみれば、生きると死ぬは相反するもので、生きていれば死んでないし、死んでいれば生きていない。第三の可能性はない。あるとしたらそれは定義の問題で、実際の状態としてはないはず。

では、最後の、「たったひとりの神になる」って、なんだろう。

 

開演してすぐ、万夜は「ぼくは昔かみさまだった」と言う。万夜は、昔神だった。では、今は?今は、御池万夜であり、それ以上でも、以下でもない。人間。

なんとなく、なんとなくだけれど、あぁそうか、と思う。生きる、死ぬ、それは人間に与えられた選択肢で、可能性だ。神は死なない、生きているという表現すら、間違っているのかもしれない。だって、この世に神なんていない。

 

ラストシーンで、万夜は、「生きる、死ぬ、生きる…………いいよ、小太郎、ぼくが神になる、たったひとりの神に」というようなことを言う。記憶力が悪いので間違っていても許してほしい。

生きる、死ぬ。たったひとりの神になる。その三つの選択肢は、決して並列ではない。前者二つは御池万夜のためにあって、最後だけは、柚木小太郎のためにある。御池万夜は神になった。

前述の通り、宗教とは、神とは、人が人生に意味を見出すために作られた。御池万夜は、柚木小太郎の死に意味をつけるために、その人生に意味を持たせるために、人間・御池万夜であることを諦め、たったひとりの、たったひとりのための、神になったのかもしれない。