好きとは頭の容量を割くことである

好きなことをたくさん書きます。タイトルでジャンルだけはわかるようにします。

人生で一番金を使った舞台が終わった話

人生で一番金を使った舞台が終わった。

千秋楽がつい四時間前くらいに終わった。

 

メサイア黎明乃刻という舞台だ。

 

続編も発表されていないが、脚本と演出の毛利先生と西森先生が卒業されるので、今すぐ続編と言われても不安が残るから、それはいい。

 

とにかく、涙が止まらない。

明日はふつうに平日で、仕事だし、朝からやらなきゃいけないことが山積みだが、止まらないので、吐き出す。この感情を。

 

人生で一番金を使ったと言ったって、たかだか30万ぐらいだ。全19公演のうち17公演に行った。もともと16の予定だったのだが、どうして行けないのか悔しくて涙が出たのでひとつだけ増やした。後悔はない。

 

私はもともと、舞台沼の人間ではなかったのだけれど、去年の四月にメサイア月詠乃刻のライブビューイングを見て(正確には予習のために見た暁乃刻で)メサイアという作品の虜になった。

何にも助けられないスパイ(サクラと呼ばれる)が、上司からの命令で組まされたバディ、メサイアを唯一の救いとして生きていく話。正確にはその養成学校の話。詳しくはわかりやすい説明をしてる方がたくさんいるのでそちらをどうぞ。

 

私はこれを見て、人間の絆の最高峰なのだと思った。過去にはたくさんのメサイアが卒業しているが、全て形が違う、最高の絆だった。名前をつけらとするなら信頼や依存や、ありきたりなものになってしまうけれど、そこには愛があった。

愛だ。メサイアの間には愛がある。それは親愛であり友愛であり、家族愛や兄弟愛であり、時には一種恋愛の類であるのかもしれない。

なぜこう表現したいかといえば、サクラはメサイアとしか絆を結べない。だから、そこには必ず愛があるし、愛であれば良いのだ。どんな種類でもない。一種、メサイアとしか表現できないそれがある。

 

そんな世界観にとんでもなく魅せられた。

沼に落ちてから、思い出はいろいろある。月詠のライブビューイングのその数日後には大阪公演のチケットを手に入れて、見に行った。新幹線で行った。とんでもなくお金がない時期で、電卓とにらめっこしていたのを思い出す。

 

幻夜は名古屋の上映館が遠くて、しかも免許合宿なんかで忙しくて、2週間ぐらいしかやんないし、8枚ぐらい持ってた気がする前売りをどうにか友人に頼んで行ってもらった記憶がある。結局映画館で見たのは同じ日に2回だけだ。ガラガラのど田舎の劇場で、上映合間に何をすればいいのかよくわからないし近くに飲食店もなくて昼ごはんに困った。

 

黄昏は東京で二度見て、大阪三度見た。社会人になる前最後の観劇で、もう東京に一人暮らし用の家があった。サンシャイン劇場は池袋から結構距離があった。腰を痛めて下のニトリで座椅子を買って帰った。

 

メサイアは特別だった。

月詠は、絶望とはなんたるかを知った。生で見なきゃいけないと思った。後悔すると思った。人の生は儚く、短く、舞台の上で繰り広げられるそれが、遠くない、身近なテーマのはずなのに、感じたこともない衝撃を受けた。

 

黄昏は、生で見る価値を知った。千秋楽の百人斬り、立った鳥肌が忘れられない。サリュートはたしかに死んだ。死んだのだ。私の目の前で、意思を貫き、たくさんのものを人々の心に遺して美しく気高く死んでいった。スークの中の人、みやこくんのことが好きなので、彼が心配だった。こんな命を削る舞台で、一番心を削っていた。演者をエンターテイメントとして消費しているのではないかという、恐怖さえ感じた。

 

とにかく、一言で言えば、おそろしい作品だった。

 

そして、黎明乃刻。9/5〜9/23、全19公演。主演は二人、橋本真一と、山本一慶。推しです。

行かなきゃと思った。シリーズ最終章、演出と脚本が卒業、推しが主演。行かない意味がわからなかった。

チケットを取った。こんなに取るのは初めてで、わけわからないくらい取った。わけがわからなくなりすぎて途中で管理できなくなり、公演2週間前くらいに、手元にチケットが余っていることに気づいたりもした。

 

公演2週間前くらいに誕生日だったが、とにかく2週間後のメサイアで胃が痛かった。友人に祝ってもらいながら、死んだら骨を拾ってほしいくらいの気持ちだった。

 

初日。

仕事終わりに行った。黒ずくめで喪服。メサイアにおいて、推しが死ぬか、死ぬより辛い目にあうか、その二択だと思っていたから、もう胃が痛かった。気分が悪くて吐きそうで吐きそうで、あの日歩いたGロッソまでの道を私は忘れない。

 

素晴らしい舞台だった。

最終回なのに、終わりじゃなかった。始まりだった。卒業するのかと思っていたけれど、なんと推しは人としてのスタートラインに立った。

見終わってみればそうだ。卒業してきた先輩たちは、たくさんの壁を乗り越えた。推したちはまだ、乗り越えられていない。だから、やっとスタートラインに立てた。立たせてもらった。

 

涙が止まらなかった。

黎明で描かれているのは、人間の弱さだ。強きものが全てを支配する、それではいけない。弱いながらに支え合って、助け合いながら生きていく。

当たり前のことだった。それを、2時間半見て、私は、それを忘れてたんだと気付いたのだ。

 

初日から数えて、17回見た。17回同じセリフを聞いて、17回同じストーリーをなぞった。

同じ演目だと思ったことは一度だってない。

すごかった。別物なのだ。初日から、大阪、凱旋。ぜんぶぜんぶ、同じ公演なんてない。

毎回何か発見した。毎回泣いた。

 

私は泣けない人間で、苦しくても辛くてもあまり泣くことがないから、たぶん五年分ぐらい泣いた。ハンカチがアイシャドウでぐちゃぐちゃになる毎日だった。

 

そして、大千秋楽。

もう、始まってすぐの、オープニングで、ダメだった。これが最後。全ての演技が、最後。

 

楽しかったばかりじゃなかった。土日をぜんぶ潰したぶん、平日にしわ寄せが来て、仕事がきつかった。心に余裕がなかったから、いろんなことに傷ついた。

それでも、やっぱり総括して、楽しかったのだ。これがやりたかった。見れるものはぜんぶ見たかった。

 

推しの笑顔に泣いた。カーテンコールは正直あまり覚えてないくらいに泣いた。

 

でも、心に響いた言葉がある。

「人は弱くて、支えあいながらしか生きていけない。それはみんなそうで、この作品が、誰かの助けになれていたら」

 

私は、この作品に支えられていた。誰がなんと言おうとそうだった。そして、その言葉を聞いて、友人の顔が浮かんだ。

一人じゃ生きていけない。そうだ。一人じゃ生きていけない。私は弱くて、支えられて、それで生きている。そう思ったら、涙が止まらなかった。

 

電車でボロボロ泣いた。花を持っていたから、ふつうに不審な人だったと思う。白いハンカチはもうわりと再起不能なくらいアイシャドウで茶色い。

 

悲しかった。もう見られないことが。こんなに素晴らしいのに。悲しいという気持ちを人生であまり感じた覚えがなくて、泣きながら振り返った。

 

思えば、おじいちゃんの葬式の時に感じた思いに似ていた。

おじいちゃんのことが大好きだった。でも、生前のおじいちゃんは三大疾病を全部制覇して、もうボロボロで、見ていてかわいそうなくらいだった。

死んだら楽になれるのかもしれないと思っていた。もうほとんど息をするだけの姿を見て、死んだほうが楽なのかもしれないと、あの頃の私はたしかに思っていた。そして、もうすぐ死んでしまうのだと、覚悟を毎日決めていた。

 

通夜は泣かなかった。おじいちゃん、そっちはどうかな。ここよりは楽なんじゃないかな。そんなふうに思っていたし、一種の解放に、安堵していた部分もあった。

 

葬式の途中で、ふと、どうしてだか、急に実感が湧いたのだ。ここ2日見続けた死体を前にして、もう会えないのだと。急に思って、ボロボロ泣いた。かなしかった。とにかく、悲しいとしか言えなかった。

 

その気持ちだった。

終わることは知っていた。シリーズ完結と言われて、その時はそうだろうと思ってた、と思っていた。通っている間だって、見て泣いたのは、終わるからじゃない。

 

とにかく、とにかく。帰りの電車は悲しくて悲しくて、涙が止まらなかった。どうしてとかそういうのももう、どうでもよかった。ただ、かなしかった。いまもそうだ。

 

夜は開けた。悲しくても、涙が止まらなくても、1日が始まる。

生きなきゃいけない。生きて、この作品を糧に、人生を歩まなければならない。

 

メサイアに、たくさんのことを教えてもらった。演劇の楽しさも、生で見る価値も、人が死ぬのが、どんなに大変なことかも、人がこんなにも弱いってことも。多すぎて数えきれない。

 

たぶん明日の仕事中も、思い出したように涙が出るんだろう。いつまでかはわからない。魂に刻まれたこれが痛むうちは泣くだろう。

それでも毎日生きていこうと思う。教えてもらったことは消えないから。それを糧に生きていきたい。