好きとは頭の容量を割くことである

好きなことをたくさん書きます。タイトルでジャンルだけはわかるようにします。

私は盲目であったが、今は見える。

翡翠ノ章二回ぐらい見ました。ハッピーエンド。

まだなんかこう、口開けてほあ〜って見てる感じなので難しいことは何も考えておらず(っていうかその後にみた鋼が衝撃的すぎて翡翠は幸せだ〜!ってなってただけ)何も書いてなかったんですけども、タイトルのセリフについて考えてみました。

 

キリスト教学が大学の必修にあって、それでやった程度なんで、例に漏れずネットの知識なんですけども。

 

「私は盲目であったが、今は見える」は、イエスが盲人の目を治す話から来ていて。

弟子たちが「この者は前世などで罪を犯したからこうなったのですか」と言うのに、イエスが「いえ、神がいると知るために盲目なのですよ」と答える的な。そしてイエスが目を治す。

エスを紛糾する人々に対して、元盲人が「私は盲目であったが、今は見える」という、確固たる事実を突きつけると。

この言葉を解釈するというか、鋭利がここでこれを持ってきた意味を考えたいんですけど、えっこれもしかして私が知らないだけで秘話とかあるのかな。それとも頭お花畑だったから聞き逃してた?何でこんな言葉を持ってきたのか不思議で考えたくなってるので、もし理由知ってる人がいたら教えて欲しいです。

 

 

とりあえず考えたので吐き出すと。

「盲目であった」→神の存在を知らなかった人間

「見える」→神の存在を知った、幸福な人間

えっわからねぇ……珀に残したメッセージだよね?これってどういう解釈をしても自己完結になる気がして。鋭利がどういう存在でどういう変化をしたのかという解説になってしまう。珀に対して何を言いたいのかがわからない。

 

ちょっと考えを変えてみて。

エスの言葉、要約すると、何かをしたから結果彼は盲目なのではなく、彼は神の存在を知るために盲目で生まれたのです。盲目は原因なのです。ということ。

そして、この言葉から彼が、盲目であることにある種の喜びすら感じているのではないかと思えます。今まで盲目であることはハンディにしか感じなかったけれどなるほど、今日この日見えるために、私は盲目であったのかと。

 

鋭利に置き換えてみて。彼は死なない男です。幾度の死線を生き延びてきた。辛かっただろうし悲しかっただろうし、死にたいと、あの時死ねていたらと思ったことがあったかもしれない。しかし彼は「絶対に死なない男」。この言葉に重ねてみると、

鋭利は今まで瀕死から生き返ってきたから死なない男なのではなく、珀のメサイアになるために「死なない男」であったし、これからもそうである。

「死なない男」は、結果ではなく、原因なのではないか。「死なない男」であったから珀のメサイアになったし、「死なない男」であるから、これからも「相方が絶対に死ぬ男」のメサイアでいつづけるのだと。

しかもこれで、鋭利は自分の今までの人生を肯定し、「死なない男」であることに喜びを感じている。死に損ない続けたから死なない男なのではなくて、鋭利は珀のメサイアになるために、いつづけるために、「死なない男」という運命を背負うのだと。そうも読み取れます。

 

ちょっと納得できた。これであれば、珀に「自分は死なない男であり、お前がメサイアだと信じ続ける限り死なない」というメッセージ。生きていると伝える。いやわかりにくすぎる……スパイの情報伝達怖い……

 

冷静な珀なら分かったんでしょうか。なるほどそういうことか……ってもし思ったとしたらすごすぎる……公安すごすぎる。

 

結果と原因はイコールでは結ばれない。そこには因果関係はあるけれど結果から原因は生まれない。海棠鋭利の「死なない男」は原因であり、御津見珀の「相方が死ぬ男」は、芹沢を原因とした結果である。そもそもこの二人のジンクスは同じ土俵に立っていなかったのかもしれません。

 

なんかもう少しこの言葉の理解につながることを言ってたかどうか翡翠を見返そうかなと思います。もう2回見たけど……足りないです……来いナニー!!